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今回のテーマは至極私的なお話です。

面白くもなんともないお話かもしれません。

やっと答えが出せたような、、

結局出ていないような、、。

似たような人がどこかに居るような気がしてます。

 

 

 

描くのが嫌だなと思う刹那。

黙って座って作業している目尻に引っかかるのは、やたら伸び放題の雑草や、真っ青な空だったりします。

やらなきゃいけないんだよな、と庭の草木と1日格闘し後片付けをしながら

ああやっぱり。

夕暮れに訪れるあの感覚。

僅かな苛立ちが入り混じる靄のような低気圧。

1日何もできなかった気になるあれだ。

あれは一体なんなのだろう。

 

 

義務教育中

偽病などを装い欠席した時、夕焼けと共にチリチリとする心の感覚。

「罪悪感」や「背徳感」と呼ばれるものにも似ていますが、

私に訪れるあの感覚は何かが違っていて

これは一度自分の中を分解してみようと思い立ちました。

 

何か後ろめたい事をしたわけではないのに纏われます。

残虐な主人公のまま目が醒めて、1日罪の意識に苛まれるあの感じとは違うのです。

飲み過ぎた次の日の怠さとも、目的を失った時のような空虚な状態とも違うのです。

 

 

 

そもそも

罪悪、背徳、虚無感等の類は己自身が感じるもの。人それぞれの違いは感度の強弱でしょうか。

 

スーパーの駐車場ど真ん中に放置されたカート。茂みに隠された沢山の空缶など。

同じ人の命にも深度や幅、方向があることを感じます。

 

夜に食べないと決めながら

起き抜けに空になったポテチの袋を眺めては項垂れる人の姿からは

満足→背徳→後悔という時の流れまでをも感じ取れて、

とてもイキモノらしいなと思います。

 

 

 

分解作業から逸れますが

この類の感覚は

とても大切なセンサーなのではないかと考えます。

人間世界のルールや倫理から

道徳、慈悲を学んで生きていく中で、

後に「嫌な気持ちになった事柄」

を繰り返すことがないよう

記憶し勉強するために必要で

決して人から教えられて備わるものではない

このオリジナル感知器は、

人となりがそのまま

その性能と直結している気がします。

 

 

 

私が靄に包まれる時、共通しているのは絵を「描いていない」時です。

やりたいけどやりたくない時、身がうまく入らない状態で別の何かをしていることが多い気がしてきました。

 

ステージ上でライブをしている最中

これと言って欲しいものがない店の中

温泉の湯舟

海外旅行の前日から当日の朝

引っ越しを決めた帰り道

先日の庭掃除のあと

などなど。

 

あの靄々は

罪悪感でもない

背徳感でもない

後悔とも違う。

決まっていつも

充実感は無い。

 

 

 

おそらく、「やらなきゃなあ」で起こした行動があの低気圧を呼ぶのかもしれない。

やりたくないとき

やらなきゃいけないことにぼんやりと取り掛かれば

靄が襲ってくるんだ。

 

とても腑に落ちました。

少しでも充実感をと、無理に何かをやるものではないのですね。

 

やりたくないときはやはり

何もやらないを

やれば良いようです。

 

 

充実感って何者だろ?

また分解か。

 

更新

12月15日

歳時記  靄


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